2009年06月16日

ニューコンビーフ・ニューコンミート

日本では材料に馬肉をブレンドしたものは、ニューコンビーフと呼ばれていた。一般にコンビーフの肉は牛肉100%であることから、ニューコンビーフは全くの別物と扱われることが多い。1948年に食糧不足の日本で初めて開発された。発売元だった野崎産業の社名を冠して「ノザキのニューコンビーフ」というブランドで広まった。1缶が100円台で入手可能なことから、B級グルメの材料などに用いられることも多い。ニューコンビーフを使った料理のレシピを紹介するウェブサイトも多数存在する。
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2005年6月に農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)が改正され、日本農林規格(JAS)における缶詰の表示を定めた「畜産物缶詰及び畜産物瓶詰品質表示基準」も改正された。これによってコンビーフの名称は牛肉100%の物のみに使用できることとなり、馬肉など他の肉が使われている物はコーンドミートと表記するように定められた。またコーンドミートの内、馬肉と牛肉が使われており、そのうちの牛肉重量が20%以上の物はニューコーンドミートもしくはニューコンミートと表記することが許可された。2006年3月の法律施行にあわせ、「ノザキのニューコンビーフ」は「ノザキのニューコンミート」と商品名が変更された。

なお、前記の野崎産業は合併・分社化などの再編を経て現在はJFEグループの川商フーズとなっているが、「ノザキの?」のブランド名は変わらず使用されている。

ほぐしたコンビーフと茹でて細かく賽の目に切ったジャガイモを混ぜ合わせた食材である。缶詰の他、1食分のレトルトパウチなどで販売されている。アメリカ合衆国ではポピュラーな食材だが、日本では沖縄県においてのみ非常に普及しており、県産品も製造されている。朝食の卵料理の付け合せに使用されるほか、野菜炒めやチャンポン、焼きそばなどの具材として、またマヨネーズと混ぜてパンに塗るなどしても使用されている。

ジャガイモが入っているため畜産物缶詰及び畜産物瓶詰品質表示基準では「コンビーフ」に該当せず、「牛肉野菜煮」と表示されている。

2009年05月30日

叙爵基準による最初の叙爵

公爵
公家からは五摂家、武家からは徳川家宗家が公爵相当とされた。
また「国家に偉功ある者」として公家からは三条家(三条実美の功)、岩倉家(岩倉具視の功)、武家からは島津家宗家(薩摩藩主島津忠義の功)、玉里島津家(島津久光の功)、毛利家(毛利敬親の功)が公爵に叙せられた。
侯爵
公家からは清華家、武家からは徳川御三家と現米[7]15万石以上の大名家が侯爵相当とされた。
琉球国王[8]であった尚氏も侯爵とされている。
また「国家に勲功ある者」として、木戸家(木戸孝允の功)、大久保家(大久保利通の功)が侯爵とされた。また中山家は「勲功により特に」侯爵が授けられた。中山家は中山忠能が明治天皇の外祖父であったことが考慮されたものとみられる。
伯爵
公家からは大臣家、大納言の宣任の例が多い[9]堂上家、武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家が伯爵相当とされた。
公家のうち東久世家は東久世通禧の功が考慮され、伯爵とされた。また、武家のうち対馬藩主宗氏は朝鮮外交の担当者であることが考慮され、平戸藩主松浦家は本来は算入されない分家の所領も計算に入れた上で伯爵とされた。これは中山忠能夫人が松浦家の出身であり、明治天皇の外戚に当たることが考慮されたと見られている。
東本願寺・西本願寺の世襲門跡家であった両大谷家も伯爵となった。
また「国家に勲功ある者」として、伊藤博文・黒田清隆・井上馨・西郷従道・山県有朋・大山巌等といった維新の元勲達が伯爵に叙された。

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子爵
公家からは伯爵の要件を満たさない堂上家、武家からは維新前に諸侯であった家が子爵相当とされた。
分家した家で本家が高い爵位を持っている場合には特例として子爵をあたえられた。子爵を与えられた分家華族としては、近衛秀麿家(公爵近衛家の分家)、徳川武定家(侯爵水戸徳川家の分家(松戸徳川家))、松平慶民(侯爵福井松平家の分家)の3家。
また「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者の家が子爵に叙せられた。
男爵
明治維新後に華族とされた家(附家老家、奈良華族等)が男爵相当とされた。
地下家でもっとも家格が高い押小路家・壬生家の2家は堂上家に準じて男爵を与えられた。
大社の世襲神職家14家[10]、浄土真宗系の世襲門跡家4家[11]も男爵となった。
琉球王家の尚氏の分家であった今江家、今帰仁家の2家も男爵とされた。
また「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者の家が男爵に叙せられた。
公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家以外は家格が考慮されず、石高のみが選定基準となった。また、この内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。維新前に公家や諸侯でなかった華族は新華族や勲功華族と呼ばれている。

また、この後も勲功による授爵、皇族の臣籍降下によって華族は増加した。また陞爵(爵位の昇進)によって爵位が変化した家もある。ただし爵位の格下げは一例も無い。また、終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることも無かったために全ての華族は永世華族となった。

2009年04月27日

ダイナマイト漁

ダイナマイト漁(ダイナマイトりょう)は、フィリピンやカンボジアで比較的日常的に行われている漁法のひとつ。爆弾漁法ともいう。

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ダイナマイトや第二次世界大戦中の沈船から回収した火薬に着火して海に投げ込み、爆発の衝撃で死んだり気絶した魚を回収する。

爆発で珊瑚礁を吹き飛ばしてしまうため、海底は穴だらけとなり、深刻な環境破壊の一因となりつつある。 しかし、現地の漁師にとっては、一発で多くの漁獲が得られることや、もともと自然保護という概念が薄い狩猟文化をもっていることもあり、ほとんど罪悪感なく行われている。

日本国内においては、火薬を用いた漁法は漁業法で禁止されている。日本では大沼(* 注 大沼という地名は複数あり、どの大沼かは不明。なお、2002年に大沼_(七飯町)でブラックバスの発破駆除が計画されていたが、直前で中止された)でダイナマイトを用いたブラックバス漁が試されたこともあった。

2009年04月10日

古典派 - ロマン派初期

18世紀半ばから19世紀前半にあたる古典派の時代になると、フルートの半音階や高音域を実現するためにキーメカニズムが付け加えられていき、最高では17ものキーがついた楽器があったといわれる。しかし、これらは必要に応じて付けられたもので、統一されていたわけではなく、運指も複雑であった。この頃一般的に使われていたのは6キーあるいは8キーのもので、管体はバロック時代と変わらず木製で円錐形、最高音はA6とされていた。このような楽器をバロック時代の1キーフルートと区別して、「クラシカル・フルート」と呼ぶことがある。

ベーム式フルート [編集]
1820年ごろから活躍していたイギリス人フルート奏者 C. ニコルソン(1795年 - 1837年)は、その手の大きさと卓越した技術によって通常よりも大きなトーンホールの楽器を演奏していた。ドイツ人フルート奏者で製作者でもあったテオバルト・ベームは、1831年にロンドンでニコルソンの演奏を聞き、その音量の大きさに影響を受け、本格的な楽器の改良を始めた。1832年に発表されたモデルは以下のようなものであった。

個々のトーンホールを大きくして、大きな音を出すことを可能にした。
リングキーを採用して1本の指で複数のキーを動かすことを可能にした(ベーム式メカニズム)ことにより、クロスフィンガリングを用いることなく、半音階が演奏可能となり、均質な響きが得られるようになったが、ほとんどの運指が変更された。
それまでD管だった管体をC管にした。
通常、全てのキーを開いた状態にしておくオープンキーの原則を採用した。(Gisオープン式)
これはGisオープンの機構を除いて、フランスで受け入れられた。ベームはその後も改良を続け、1847年に発表されたモデルは、

円錐だった管体を円筒にし、音響学に基づいてトーンホールの位置を決め直した。同時に、高音域のピッチ改善と発音しやすさのため、円筒だった頭部管を円錐にした。
管体を木製から金属に変更し、より輝かしい響きを得られるようにした。
という、現在のフルートとほぼ同じものであった。これ以後現在までに加えられた変更は、フラット系の調を演奏するのに便利なように、低音域および中音域の変ロの運指を容易にするためのブリッチャルディ・キーが付け加えられたことと、フランスの人達がGisオープン式に馴染まなかったために、Gisクローズ式のものが多く用いられた程度である。

ベーム式フルートは、最初にフランスで、後にイギリスで使用されたが、発祥の地であるドイツでは20世紀に入るまで受け入れられなかった。ドイツの人達はこの新しい楽器を「全音域にわたって単調過ぎるほど均質で高音域では特に甲高い」とみなしたのである。さらに、この頃のドイツ音楽界に大きな影響を持っていたワーグナーがベーム式フルートの音色を激しく嫌ったことも、ドイツでの普及を妨げた大きな要因といわれている。

ロマン派中期以降 [編集]
19世紀半ば以降ベーム式フルートは、演奏性能の可能性と群を抜いた作りの良さが認められ、パリ音楽院の公式楽器に指定され、アンリ・アルテ、ポール・タファネル、フィリップ・ゴーベール、モイーズらフルート科教授によってその奏法の発展と確立がなされた。また、オーギュスト・ビュッフェ・ジュニア、クレール・ゴッドフロイ・シニア、ルイ・ロットらの楽器製作者がベーム式楽器の普及を助け、ドビュッシー、フォーレをはじめとする作曲家たちも、多くの名曲を書くこととなった。こうして、フランスは一気にフルート先進国としての地位を確立したのである。パリ音楽院では20世紀初頭において他の木管楽器も同様に演奏と作曲レパートリー双方の発展を遂げ、木管楽器を中心にパリ楽派(エコール・ド・パリ École de Paris)と呼ばれる一派を形成するに至った。

一方、ドイツやオーストリアでは、金属製の音色を好ましく思わないながらも、ベーム式メカニズムの長所を認め、20世紀に入る頃には、メカニズムはベーム式で管体が木製の楽器が用いられるようになった。

近現代 [編集]
第二次世界大戦後、レコードの普及や放送技術の発展とともに、ランパルがソリストとして活躍し、フルートの魅力を世界中に示すこととなった。また、モイーズがカリスマといえるほど、教育者としての影響を長い間持ち続けていたことと重なって、世界中でフルートの演奏スタイルといえば、フランス風のそれに大きく偏ったものとなっているといえる。楽器製作に関しては、現在、フランスはその地位をアメリカと日本に明け渡しており、世界的なシェアはこの2国がほとんどを占める。

前述の通りドビュッシーはフルートにおけるレパートリー拡張の第一人者であるが、中でも独奏曲『シランクス』はフルート独奏のための作曲という行為において重要な位置を占めている。

『シランクス』以後において初めてフルートの演奏法の拡張を試みた音楽は、エドガー・ヴァレーズの『密度21.5』である。これはキー・パーカッションといって、キーを強く叩きながら吹くことによるアタックの音の変化を求めた特殊奏法を開発し、また超高音域を執拗に求め演奏における音域の拡張に成功した。O・ニコレいわく「アンチ・シリンクス」。

ちなみに現在では一般的である、ヴィブラートの存在が確認されたのは第二次世界大戦以降で、それ以前はかけていなかったのではないかと推測されている。

その他戦前における特殊奏法としては、ジャック・イベールのフルート協奏曲のカデンツァ、リヒャルト・シュトラウス、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲第8番などでは、巻き舌によるフラッターツンゲ奏法が試みられた。同じくイベールの協奏曲ではハーモニクス奏法も要求されている。

戦後の現代音楽では、まずフルート奏者のブルーノ・バルトロッチが重音奏法を体系化した教本を出版し、またピエール=イヴ・アルトーやロベルト・ファブリッツィアーニなどその他多くのフルート奏者、またサルヴァトーレ・シャリーノらの作曲家によって息音を含む奏法、ホイッスルトーン、タングラム、リップ・ピッツィカートなど新しい奏法も次々と開発された。これらの噪音的な奏法は現代音楽の多くのレパートリーで採用されることになった。当初は物珍しさからこれらを無反省に取り入れただけのレパートリーも乱発されたが、これら「現代音楽的語法」は今やあまりに一般的なものとなったために、作曲における方法論や構造が堅強な作品でない限りは次第に淘汰されつつある。しかしその中でルチアーノ・ベリオの『セクエンツァI』などの優れた名曲は現在も「古典」として多くの奏者によってコンサートや教育現場で取り上げられ、聴衆にも親しまれている。

現在はキーシステムにMIDI機構を取り付けた「MIDIフルート」と呼ばれる楽器も存在する。これは発音原理は通常のフルートと同じであり特に電子的な発音機構によるものではないが、MIDIの出力機構を備えており、奏者の演奏情報をリアルタイムに別のMIDI機器やコンピュータに伝えることができる。同一の指使いで複数のオクターヴの可能性のある音や演奏上の強弱(ヴェロシティ)の検知のためのセンサーも備わっている。ただし楽器は通常のものに比べて相当重い。ピエール・ブーレーズが『エクスプロザント・フィクス(爆発・固定)』で用いられるほか、IRCAMなどを中心に援用が見られる。

音域 [編集]
コンサート・フルートの基本的な音域はC4(中央ハ)から3オクターヴ上のC7であり、ほとんどの楽曲はこの範囲で作曲されている。ただし、最低音はB足部管を用いる場合、B3が可能であり、現代ではほとんど見かけることはないが、B♭3足部管も存在していた。また、最高音は、上に広げられる努力が重ねられており、F7までの運指が比較的広く知られている。チューニングする(他の楽器とピッチを合わせる)際には、オーケストラでA5を、吹奏楽ではB♭5を用いる。

なおラヴェルをはじめ幾つかの合奏曲などでB♭3(A#3)が存在するが、これは一般的に普及しているB足部管を用いても演奏不可能であるため、奏者によっては、特注の金属製管または厚紙などを丸めたものを足部管端に装着し演奏をすることもある。B♭3(A#3)が存在する理由としては和声の構成の理論上の音、作曲当時の楽器にB♭足部管が存在していた、作曲者の洒落等と考えられている。

最低音からB4までの音域は、低音域、あるいは第1オクターヴなどと呼ばれ、音量は大きくないが、幅広く柔らかい音色を特徴とする。特に最低音に近いいくつかの音は明瞭な発音が難しい。

C5からB5までの音域は、中音域、あるいは第2オクターヴなどと呼ばれ、表情豊かな音色を持ち、音量の変化が容易である。

C6からB6の音域は、高音域、あるいは第3オクターヴなどと呼ばれ、明るく輝かしい音色で、音量は比較的大きい。また、運指は中低音域に比較してやや不規則である。

C7より上の音域は、第4オクターヴと呼ばれ、高い音ほど発音が難しい。発音に非常に速い呼気を要するため音量は必然的に大きくなる。また音色は鋭く、空気音の混じったものになりがちである。この音域が開発されたのは20世紀に入ってからであり、現代音楽で使用されることがある。この音域は、楽器によって発音の難易度やピッチのばらつきも大きく、運指法も一定していない。現在はC8の運指まで発見されてはいるが、実際その音を出せる人は稀である。

ただし、音域に関する呼称は厳密なものではなくやや幅がある。例としてC6を中音域とするか高音域とするかは用語の使用者によって異なるため「チューニングA(吹奏楽ではB♭)の上のC」などと呼ぶのが確実である。

標準的な運指を用いた場合の音響学的な倍音モードは次の通りである。

C4(B足部管の場合はB3) - C#5:基音
D5 - C#6:第2倍音
D6:第3倍音
D#6 - B6:第4倍音(A6は第5倍音と考えることもできる)
C7:第6倍音
なお、フルートでは半音階のみならず、特殊な運指によって微分音を奏することも可能である。様々な運指が存在するが、一般的にはカバードキーよりもリングキーの方が容易である。主に現代曲に用いられ、作曲家が運指を指示することもある(例:B・ファーニホウ『ユニティカプセル』、K・アホ『ソロIII』、K・サーリアホ『ラコニズムドゥレル』など)。

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2009年03月26日

胸(むね)

胸(むね)とは、人体において首と腹部に挟まれており、脊椎より前方の部分である。また、動物において、それに対応する部位をさす。内臓部分を意味する場合と、身体の外形、特に乳房を意味する場合がある。ヒトのように肋骨により保護されている場合や、昆虫など外骨格を持つ生物においては胸郭(きょうかく)と呼ばれる(昆虫の構造)。哺乳類の胸郭内の体腔は後方を横隔膜で仕切られて他の体腔から分離するので、胸腔(きょうこう)と呼ばれ、そこに肺と心臓を収める。

また、『心』や『思い』を示す表現に用いられる。
陸上脊椎動物の場合、胸には前足があり、主として体を支える役割をする。体内には肺と心臓がある。また、ヒトや猿の場合には前に乳房がある。

4足歩行を行う哺乳類では、乳房と乳首が後ろ足の近くにある場合も多く、そのため胸部には含まれない。一方、解剖学においては、その体内器官を胸部に含むことがある。

むろら バイラ プラズマ スプロー ディスト ラリー シリンダー ペツォ メイドカ 検索いふ スワン マンサク アーモンド オーバー カミソール セルフレ ワイウク 氷の世界 リット ジャムパン マンナ ロファ ターニュ トウチク ゴデチア ぽっぽ 幸せ ハードカレ キューム パイソオ セクレ リファンド お猿岩 鳳仙花 スタート マテハン めんか キャンベラ タメ口 ブリーフス シオン 最新検索 アフレコ モダンジ ストマイ ライン フローベ ウィザード ちとう ディエフ


節足動物の場合、胸部といえば頭部の後ろ、腹部の前で、歩脚がついている。また、昆虫では背中側に2対の翅がある。総じて体を支え、運動の支点になる部位をさして胸と呼んでいる。

ヒトの胸郭
ヒトの胸郭(英:thorax、独:Brustkorb、羅:thorax, pectus)は頚部と腹部の間にあり、心肺など生体重要臓器を容する体部で、円錐台形の籠状の構造になっており、弾力性に富む。胸郭後方には支柱となる12の脊椎がある。この脊椎を起点として12対の肋骨が前下方へ向かい、側方から再び上へ向かい、肋軟骨を介して胸骨と繋がり、肋骨籠 rib cage を構成する。この骨組に肋間筋その他の胸部諸筋、筋膜、横隔膜が付着して胸郭となり、その内壁を肋膜が覆って胸腔 thoracic cavity を形成する。

胸腔の中心部には心臓、大血管、気管、食道、神経、胸腺を内包する縦隔があり、その周囲に肺がある。肺は肺門で縦隔の組織、気管と連絡される。胸郭は心臓、肺を外部から保護する一方で、肋間筋、横隔膜、腹筋の他、必要に応じて斜角筋、胸鎖乳突筋、小胸筋などの呼吸補助筋を作動させて呼吸運動を営む。上部の出口は頚部と連なり、下部は横隔膜で腹部と仕切られている。先天奇形、後天性変形、神経筋疾患、外傷などによって胸郭の構造、機能が乱されると心肺機能に障害をもたらす。

2009年03月11日

ホヤ=デ=セレン (Joya de Cerén)

ホヤ=デ=セレン (Joya de Cerén) は、「Cerénの宝物」という意味を表し、 エルサルバドル西部、首都サンサルバドルの北西36kmに位置する古典期後期の集落遺跡である。ただ単にセレン遺跡と呼ばれることもある。ホヤ=デ=セレンの建築物や耕地は、A.D.590年前後に起こったロマ・カルデラ火山の噴火による 5 メートルにも達する火山灰などの分厚い噴出物の層によって1400年もの間当時の生活の様子をそのままパックした遺跡となっていることがこの遺跡の価値を高め、「中米のポンペイ」だと呼ぶ人もいる。ホヤ=デ=セレンの立地は、海抜 450 メートル、熱帯雨林気候で、降水量は、1700 ± 300 ミリメートルくらいである。

ロマ・カルデラ火山以前にもイロパンゴ (Ilopango) 火山の大噴火が紀元2世紀くらいに起こり、それ以後1?2世紀という短期間にわたってホヤ=デ=セレンの住民たちが住み着いてイロパンゴの噴出物の層の上に自分たちの集落を築いた。しかし今度はロマ・カルデラ火山が爆発し、住民たちは、日用家具をはじめ貴重品まですら置き去りにし、家や公共建物の家財も放置して安全な場所へと逃亡した。噴火の直前には小さな地震があったこと、噴火の前兆としてホヤ=デ=セレンの村の北方で水蒸気が吹きあげたことが住民に危険を予知させたのである。ただ、村の南側は手つかずであるため、発掘調査をおこなえば犠牲者の遺体を発見できるかもしれない。 噴火が本格的に始まると、煮えたぎった玄武岩質のマグマがサポティタン (Zapotitan) 河谷のスシオ (Susio) 川の水に触れたであろう。噴火が始まったときは、水蒸気の巨大な熱雲、火山灰、火山ガスが時速 100 キロメートルのスピードで轟音とともに街を吹きぬけた。まもなく火山灰と一緒に 575 ℃を超える熱い溶岩の塊が降り注いだ。火山弾がシュロ葺きの屋根を貫いて噴火活動は、引き続いて水蒸気爆発がおこって、14回にも及んで火山噴出物を降らせるというものだった。厚さ 5 メートルにもおよぶ火山灰は、後世の人間による攪乱から遺跡を効果的に守ってきただけでなく作物や樹木といった植物をパックすることになった。作物や樹木そのものが分解してなくなっても空洞という形でその本来の形状が保存されたのである。

まず、「公共的な空間」が遺跡の中央部を占めている。「公共的な空間」にあたる場所には、 5 メートル× 8 メートルの比較的大きな建物である構造物3号が建てられている。構造物3号は、丈夫な土壁でできた建物であるが、大きめなだけではなく公共的な目的で使用された建物である証拠がある。入り口から入った最初の部屋には「ベンチ」状の構造があり、権威の象徴であったと考えられている。おおきな甕からなんらかの液体が「ベンチ」に捧げられたと思われ、その際、液体を汲み上げるのに用いたであろう半球形で多彩色の鉢が「ベンチ」の上方にあたる壁の上から発見された。構造物3号の南東に中庭を囲むように対になっているとおもわれる構造物13号も部分的にしか調査されていないが3号とよく似た構造をもっていたと思われる。ただし、3号と異なって公共的な道具を保管する倉庫ないし貯蔵施設だったかもしれない。 構築物9号は3号や13号よりやや南側に離れた場所にある。構築物9号には、おおきなスチームバス、つまり「蒸し風呂」のような施設がある。おそらく公共的な目的に用いられたのであろう。というのは、12人はすわれそうな「座席」の構造が内部にあり、外部にもゆったりとした「ベンチ」があるからである。9号は、堅く丈夫な土壁と中央部に石造りのかまどがあり、素晴らしい技術を示す土のドームが屋根となって建物の内部に蓋をしていた。つまり、この建物は、たいていの茅葺き屋根では耐えられない噴火の災害から完全に守られていたのである。
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村人の生業や生活をさぐる
この遺跡の居住空間は、3ヶ所発見されている。家屋空間1号は、ほぼ全体が発掘調査され、他の2つの家屋空間についても大部分の調査がおこなわれている。これらの居住用の建物は、少なくとも3つの機能的に特化できる建物で構成されている。すなわち居住用と倉庫と厨房(調理場)である。居住用建物は、寝る場所であり、さまざまな日用家具を造る場所であり、食事をする場所である。通常の建物の構築方法は、低いけれども広い土のマウンドで造られ雨水によって流されてしまうような土の構築物である。プラットフォームは頂点が 4 メートル× 4 メートルの四辺形の基壇であり周囲の地形に対して 0.5 ? 1 メートル盛土されて造られる。プラットフォームには、硬く乾燥させた後、焼成して、いぶしてアドベ(日干し煉瓦)の堅い床がある。網代に泥を塗り固めた壁が建てられ、屋根を支える梁がしっかり縛りつけられる。屋根は、草やシュロによって茅葺される。建物の四隅に土の柱が碇状に建てられた。ホヤ=デ=セレンの家々は、驚くほどたくさんの物資に恵まれていた。家屋空間1号からは、70個体以上の土器が発見された。小さな壷からこすり目のついた貯蔵用の大きな器、多彩色で半球形の食器などが発見された。また多彩色に塗られたひょうたんやかご、そのほか植物で作られた入れ物が発見された。またおびただしい石の剥片や製粉用のすり石道具(マノ、メタテ)が発見された。ホヤ=デ=セレンの人々はそれぞれ持ち物とする畑において、トウモロコシ、薬草、繊維をとるための作物や花などさまざまな作物を栽培していた。それは、トウモロコシを植えるためのミルパ (milpa) と呼ばれる焼畑とは全く異なるもので、3つから5つの作物を決まった場所に、低い畝を設けて作物をその頂点に植えていた。作物の作付の状況からその年の豆が植えられていないことから、噴火の起こった時期は8月ごろであると考えられている。トウモロコシの茎が倒れて穂が畑の中で乾燥している状態で発見された。さらにナンセ、マニオク、カカオ、guayabaなどの作物も発見された。畑の中にはマゲイ(リュウゼツラン)のみが植えられている場所もあった。

村のシャーマンの住む家
構築物10号及び12号は、宗教儀式が行われた建物と考えられる。内部の構造は、一番奥に二つに分割された部屋があり、その部屋には、「神聖な」器物が納められていた。それらの器物のなかには、彩色されて糸でつなぎ合わされた鹿の頭蓋骨でできた頭飾りがあった。また鹿の肩甲骨やおおきなワニの形をした赤く塗られた土器が見られた。より外側の部屋には貯蔵用や調理用の土器がかなりの量の貯蔵された食物と一緒に納められていた。この外側の部屋は調理スペースであって儀式をつかさどる人々の食物を用意するスペースであったとも考えられる。構築物12号は、非常に複雑な構造をしており、喜捨物や礼拝行為での捧げ物と思われるおびただしい遺物が遺されていた。構築物12号では、シャーマンが活動していたのかもしれない。

2009年02月22日

アルゴンキン語族

アルゴンキン語族は、アメリカ先住民の言語の語族の1つである。アメリカ合衆国北部およびカナダの、ロッキー山脈から東海岸に至るまでの広い範囲で話されていた。共通の祖語から発展したと考えられており、祖語は(場所はわからないが)少なくとも3千年前に話されていたとされる。

さらにカリフォルニア州北西部の2つの言語、ウィヨット語(Wiyot)とユロック語(Yurok)も遠縁ながら同じ系統に属すと考えられており、これら全部をあわせてアルジック語族ともいう。
ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ

アルゴンキン語というのはこの語族の中の1つの言語であり、語族のことではない。

分類
アルゴンキン語族は、大きく大平原・中央・東部の3語群に分けられ、さらに27ほどの言語(それぞれ多くの方言を含む)に分けられているが、分類に関しては議論がある。

A. 中央・平原語群

I. 平原語群
1. アラパホ語Arapahoan
2. ブラックフット語Blackfoot
3. シャイアン語Cheyenne
II. 中央語群Central
4. クリー語Cree
5.フォックス語Fox
6. メノミネ語Menominee
7. マイアミ・イリノイ語Miami-Illinois
8. オジブワ語(オジブエ語)Ojibwa(オタワ語、アルゴンキン語など)
9. ポタワトミ語Potawatomi
10. Shawnee
B. 東部語群

11. 東アベナキ語Eastern Abenaki
12. 西アベナキ語Western Abenaki
13. Etchemin
14. レナペ語(デラウェア語)Lenape(Delaware)
15. LoupA
16. Loup B
17. モヒカン語(マヒカン語)Mahican(Mohican)
18. マリセート語Maliseet
19. マサチューセット語Massachusett
20. ミクマク語Míkmaq
21.モヘガン・ペクォート語Mohegan-Pequot
22. ナンティコーク語Nanticoke
23. ナラガンセット語Narragansett
24. Pamlico
25. ポーハタン語Powhatan
26.Quiripi-Naugatuck-Unquachog
27. Shinnecock

ンキン語族は典型的な複総合的言語である:つまり、他の多くの言語では単語数個からなる文で表現される内容を、1つの動詞で表すことができる。また3人称は少なくとも2つに分けられ、これにより談話で話題となっている中心的人物(たち)が明示される。

エドワード・サピアやレナード・ブルームフィールドによる研究が特に有名である。多くの言語が絶滅に瀕しており、すでに絶滅したものもある。

この地域の地名はアルゴンキン語族によるものが多い:例としては、マサチューセッツ、コネチカット、イリノイ、ミシガン、ウィスコンシン、ミルウォーキー、シカゴ、オタワなどがある。

2009年02月06日

八角三郎

八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年(明治13年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月20日)は、日本の海軍軍人。衆議院議員。最終階級は海軍中将。岩手県盛岡市出身。

旧制岩手県立盛岡尋常中学校より海軍兵学校第29期入校。入校時成績順位は137名中第119位、卒業時成績順位は125名中第75位。
キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

叔父は栃内曽次郎海軍大将。八角が海軍兵学校を志願するきっかけは原 敬の激励だったと言う。

米内光政とは旧制中学校来の大親友であり米内の死まで続く。殊に鈴木貫太郎内閣に於いて米内海軍大臣の補佐をする意味合いも兼ね内閣顧問を拝命して鈴木首相や米内海相、東郷外相などが中心になって進めた終戦工作に協力した。

海軍を引退後は本籍地たる岩手県から政友会の推薦を受け衆議院議員に立候補、投票数6833票を獲得し初当選以来4期13年間務めた。

人物像
海軍兵学校同期では米内光政以外では、荒城二郎、米村末喜の4人が仲が良かったと伝えられている。また対英米強硬派の石丸藤太との関係は芳しく無かった。

年譜
1880年(明治13年)12月19日- 岩手県南岩手郡仙北町(現在の盛岡市)生
1886年(明治19年)4月1日- 岩手県立盛岡師範学校附属小学校入学
1893年(明治26年)3月31日- 岩手県立盛岡師範学校附属小学校卒業
4月1日- 岩手県立盛岡尋常中学校入学
1898年(明治31年)3月31日- 岩手県立盛岡尋常中学校卒業
12月17日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位137名中第119位
1901年(明治34年)12月14日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位125名中第75位・任 海軍少尉候補生・砲艦「比叡(初代)」乗組・練習艦隊近海航海出発 対馬~釜山~ウラジオストック方面巡航
1902年(明治35年)1月26日- 帰着
2月19日- 練習艦隊遠洋航海出発 マニラ~パーム島~タウンズヒル~メルボルン~ボバート~オークランド~スパ~釜山~馬山浦方面巡航
8月25日- 帰着
9月3日- 戦艦「初瀬」乗組
11月8日- 砲艦「比叡」乗組
1903年(明治36年)1月23日- 任 海軍少尉・戦艦「富士」乗組
1904年(明治37年)7月13日- 任 海軍中尉
8月12日- 兼 戦艦「三笠」臨時乗組
8月29日- 免 戦艦「三笠」臨時乗組
1905年(明治38年)2月13日- 3等駆逐艦「吹雪(初代)」乗組 兼呉海軍工廠装委員
8月31日- 舞鶴海兵団分隊長心得
12月12日- 海軍水雷術練習所学生
1906年(明治39年)7月12日- 第6水雷艇隊艇長心得
9月28日- 任 海軍大尉・第6水雷艇隊艇長
1907年(明治40年)4月5日- 3等巡洋艦「明石」水雷長兼分隊長
9月3日- 2等巡洋艦「橋立」分隊長
1908年(明治41年)8月6日- 横須賀鎮守府附
9月4日- 通報艦「最上(初代)」分隊長
9月25日- 3等駆逐艦「白露」駆逐艦長
11月20日- 海軍水雷学校教官兼分隊長
1909年(明治42年)4月17日- 免分隊長 兼副官
12月1日- 免副官 兼練習水雷艇隊艇長
1910年(明治43年)4月1日- 免練習水雷艇隊艇長 兼第4水雷艇隊艇長
12月1日- 海軍大学校甲種第10期学生
1912年(明治45年)5月22日- 海軍大学校卒業 卒業時成績順位10名中第6位
5月25日- 巡洋戦艦「鞍馬」分隊長
12月1日- 馬公要港部副官兼参謀
1913年(大正2年)10月14日- 海軍省軍令部出仕
1914年(大正3年)4月22日- 軍事参議官伊集院五郎海軍大将副官兼軍令部出仕
7月1日- 兼 海軍省軍令部参謀
12月1日- 免 副官
1916年(大正5年)12月1日- 任 海軍中佐
1917年(大正6年)12月1日- 軍令部出仕 臨時軍事調査会委員
12月15日- 第7戦隊水雷参謀
1918年(大正7年)8月10日- 遣支艦隊水雷参謀
12月1日- 在支那日本公使館附海軍駐在武官 天津駐在
1920年(大正9年)12月1日- 任 海軍大佐
1921年(大正10年)5月30日- 帰朝
11月1日- 2等巡洋艦「利根(初代)」艦長
1922年(大正11年)5月30日- 戦艦「三笠」艦長
9月8日- 海軍省軍令部第3班第5課長
1923年(大正12年)5月15日- 横須賀鎮守府附 欧米各国出張
1924年(大正13年)3月3日- 帰朝
6月10日- 海軍省軍令部参謀
7月18日- 1等海防艦「磐手」艦長
11月1日- 巡洋戦艦「金剛」艦長
1925年(大正14年)12月1日- 任 海軍少将・第1水雷戦隊司令官
1926年(大正15年)12月1日- 第2水雷戦隊司令官
1927年(昭和2年)12月1日- 海軍水雷学校長
1929年(昭和4年)9月12日- 横須賀鎮守府附
11月30日- 大湊要港部司令官
1930年(昭和5年)12月1日- 任 海軍中将
1931年(昭和6年)3月1日- 海軍省軍令部出仕
3月20日- 待命
3月31日- 予備役編入
1932年(昭和7年)2月22日- 衆議院議員(政友会所属)
1937年(昭和12年)6月24日- 拓務省政務次官
1939年(昭和14年)1月19日- 拓務省政務次官依願免
1940年(昭和15年)10月13日- 大政翼賛会中央訓練所所長
1942年(昭和17年)6月1日- 免 大政翼賛会中央訓練所所長
1945年(昭和20年)4月26日- 鈴木内閣顧問
8月20日- 免 鈴木内閣顧問
12月18日- 衆議院議員辞職
1961年(昭和36年)4月1日- 財団法人岩手県学生援護会理事
1965年(昭和40年)1月20日- 死去 享年84


2009年01月22日

九州大学生体解剖事件

九州大学生体解剖事件(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)は、1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現在の九州大学)医学部において米軍捕虜に対する生体解剖実験が行われた事件である。相川事件とも言われる。

1945年5月、九州方面を爆撃[1]するために飛来したB-29が熊本県・大分県境で19歳の学徒兵が乗った戦闘機の空中特攻によって撃墜され、搭乗員のウイリアム・フレドリック少佐ら12名が捕らえられた。東京からの暗号電命令(「東京の捕虜収容所は満員である。情報価値のある機長だけ東京に送れ、後は各軍司令部で適宜せよ」)により、捕虜の処遇に困った西部軍司令部は、裁判なしで12名の搭乗員の内、8名を死刑処分とすることにした。それを知った九州帝大卒で病院詰の見習士官だった小森卓軍医は、石山福二郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという。

生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われた。指揮および執刀は石山福二郎主任外科部長であった。軍部は実験対象者の情報について広島の原爆で死亡したと嘘の報告書を提出したが矛盾をつかれ、事件が露呈した。その後GHQがこの事件について詳しく調査し、最終的に九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。なお、企画者の一人とされた石山福二郎教授は「手術は実験的な手術ではないのでその質問には答えられません、私が行った手術のすべては捕虜の命を救う為だったと理解していただきたい」とし、生体解剖については否認し続け、最終的に独房で遺書を書き記し自殺した。

最終的なGHQの調査で捕虜の処理に困った佐藤吉直大佐が小森卓軍医に相談し、石山福二郎教授に持ちかけ、実行されたことが判明したが、企画者のうち、小森軍医は空襲で死亡、石山教授が自殺したため、1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。

(西部軍関係者)
佐藤吉直大佐
横山勇中将
(九大関係者)
鳥巣太郎助教授
平尾健一助教授
森好良雄講師
その後、朝鮮戦争が勃発し、米国は対日感情を配慮したことから獄中自殺した1名を除き、恩赦によって減刑され、その多くが釈放された。ただし、人肉食事件など自白の一部は強要によって捏造された事件である(後述)。

自殺した石山教授の遺書には「一切は軍の命令なり、すべての責任は余にあり」としている。また九州大医学部卒の外科医山内昌一郎は、「手術はすべて石山の専門分野に及んでおり、彼の業績に対する野心が明らかである」、と指摘している。 また当時、雑用係として解剖実習実室に出入りしていた東野利夫は、「いかに戦争というものが人命を預かる人間でもここまで狂ったというか、そういうことが二度とあってはならないが、戦争時代にあったという事実、軍が良いと言ったからとやったという言い訳はもう今後は二度と出来ない」と語っている。

犠牲者となった搭乗員が乗ったB29が墜落した大分県竹田市の現場には慰霊碑が存在する。

九州大学の組織的関与について
九州大学は戦後、事件が発覚する直後に大学としての組織的関与を否定した。

実際に、フォン・バーゲン主任検事の最終論告で示されたように、この事件は九州大学が組織として関わった形跡は全くない。上坂冬子は、本事件に対し、いわば九州大学を現場として起こった「一握りの個人のアイデアに基づく行動」[上坂1982:231]と言える性格のもの断定している。もし組織的関与があったならば当時においても学部長・総長[2]の責任が問われて然りであるが、GHQ側から疑惑も向けられておらず、したがって起訴されていない。

このように、この事件は大学組織とは無関係な出来事であったので学内およびOBによって関心が向けられる機会は少なく、近年まで話題に上ることはあまりなかった。しかしながら九州大学は今日歴史上の事件に対する医療倫理および医学史的関心から本事件に対し真摯に向き合うという姿勢を示している。2008年11月29日には医学部構内で日本生命倫理学会第20回年次大会[3]が開催され、事件に対する基調講演「いわゆる『九大生体解剖事件』の真相と歴史的教訓」(講演者:東野利夫博士〈九州大学医学部OB〉)が行われた。

生体解剖

概要
銃殺刑の代わりに行われた、生存を考慮しない臨床実験手術だった。医学会の権威だった石山教授をはじめ、15人の医学部関係者・西部軍参謀の立会いのもと行われた。この手術は当時としては先進的なもので、ほぼ目的を達成し手術は成功したとされる[4]。

企画者 : 佐藤吉直大佐(西部軍)、小森卓軍医(西部軍)、石山福二郎(九州大学教授)
実験場所 : 九州大学 解剖実習室
実験期間 : 1945年5月17日から6月2日
実験対象者
ウィリアム・F・フレドリック少尉
デール・プランベック少尉
ジョージ・M・ベーリィ少尉
ビリー・J・ブラウン軍曹
テッディ・デングラー軍曹
チャールズ・パーマー軍曹
ロバート・B・ウィリアム軍曹
ジョン・C・コールハウエル軍曹
スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

実験目的と方法
実験手術の目的は、主に次のようなものであった。

不足する代用血液の開発のための実験
結核の治療法の確立のための実験
人間の生存に関する探求
新しい手術方法の確立のための実験
手術方法は、主に次のとおりであった。

血管へ薄めた海水を注入する実験
肺の切除実験
心臓の停止実験
その他の脳や肝臓などの臓器等の切除実験 
どれだけ出血すれば人間が死ぬかを見るための実験

関係者の証言記録

取調べの調書録
私は手術の目的について、捕虜の肺から銃弾を取り除くためと聞いていました。ところが肺全体が切り取られました。捕虜の右の肺を取り除くと、大量出血が始まり捕虜は10分後に死亡しました:(巣鴨)
なぜ肺を切除したのか?:(GHQ取調官)
石山先生の手術の狙いは新しい手術方法を試すことだったと思います:(巣鴨)

? 巣鴨太郎助教授

捕虜の腕に海水が500ccほど注入されました。この時捕虜はまだ生きていましたが10分ほどして捕虜は死にました:(筒井)
その手術は必要だったのですか?:(GHQ取調官)
この手術はどれだけ出血すれば人間が死ぬかを見るためのものだったので必要なかったと思います:(筒井)

? 筒井シズ子看護婦長

先生に反対するなんてことは考えられません。私達は大学を辞めたあとも一生医者として石山先生との関係が続くのです。また当時軍がやることに口を挟むことなんて出来ませんでした:(平尾)

? 平尾健一助教授

手術は軍の命令で行ったのですか?:(GHQ取調官)
その質問には答えられません:(石山)
あなたが実験手術をしようと決めたんじゃないですか?:(GHQ取調官)
手術は実験的な手術ではないのでその質問には答えられません、私が行った手術のすべては捕虜の命を救う為だったと理解していただきたい:(石山)
私達は手術がなぜ行われたのかすべて知っています:(GHQ取調官)
あなたは私からありもしない答えを聞き出そうとしている:(石山)

? 石山福二郎教授

戦後の手記・回想録
日本国土を無差別爆撃し無辜の市民を殺害した敵国軍人が殺されるのは当然だと思った。ましてたった一人の倅をレイテ島で失った私にすれば、それが戦争であり自然のなりゆきだと信じていた

? 当時解剖実習室の管理者:平光吾一教授の手記より

そのころの日本人は激高心をアメリカに対して持っていた。もちろん医者が人命にかかわる人体実験をしたことは悪いが、そこを間違わせるのが戦争であり、いかに戦争というものが人命を預かる人間でもここまで狂ったというか、そういうことが二度とあってはならないが、戦争時代にあったという事実、軍が良いと言ったからとやったという言い訳はもう今後は二度と出来ない

? 当時学生:東野利夫の談話

事件の背景と問題性
インフォームド・コンセントを経ない臨床実験は当時、アメリカを含め世界中で一般に行われており、臨床実験における患者への説明と合意の取り付けの原則が医学界で確認されたのは、事件の2年後に「ニュルンベルク綱領」が発表された1947年においてである。

当時、法理論および倫理的に本事件が問題とされたのは、

捕獲した爆撃機の搭乗員への戦犯の規定が日本側の軍法会議の判決を経ずに行われたこと、
実験内容が被験者に対し回復の可能性への考慮が極めて低い水準のものであったこと、
死亡に至った被験者の埋葬を怠ったこと、
などが挙げられ、実際に上記の内容についてGHQ側より起訴を受けている。

人肉試食の疑惑について
軍人5名が肝臓を試食したとする容疑については、GHQ捜査官による全くのでっち上げで、当時においても死刑求刑後11日目に被疑者全員がGHQによって無罪放免にされている

2009年01月15日

丑の刻参り

インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

丑の刻参り(うしのここまいり、うしのこくまいり、うしのときまいりとも)とは、丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を毎夜五寸釘で打ち込むという、日本に古来から伝わる呪術の一種である。

有名な神社としては、京都府の貴船神社や岡山県の育霊神社などがある。

この丑の刻参りは古くからあるようで、鎌倉時代後期に書かれ、裏平家物語として知られる屋代本『平家物語』「剣之巻」に登場する。「長なる髪をば五つに分け、五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて、三の足には松を燃し、続松(原文ノママ)を拵へて、両方に火をつけて、口にくはへつつ、夜更け人定まりて後、大和大路へ走り出て……」とある。「宇治の橋姫」と呼ばれる女性が、現在伝わる丑の刻参りと似た方法で、怨みをはらすため鬼になりたいと願をかけ、願いを成就させている。

この時に宇治の橋姫が丑の刻参りを行ったのが、当時、心願成就・呪咀神信仰で有名であった貴船神社である。

しかし、この話に登場する宇治の橋姫は、五寸釘や藁人形を用いておらず、現在の形で丑の刻参りが行われるようになったのは、室町時代に成立した謡曲「鉄輪」において、陰陽道の人形祈祷と丑の刻参りが結びついたためという説が有力視されている。

また、丑の刻参りの方法は江戸時代に完成した方法を基本的な部分では踏襲しているものの、細かい部分では、藁人形に呪いたい相手の体の一部(毛髪、血、皮膚など)や写真、名前を書いた紙を入れる必要があったり、丑の刻参りを行う期間に差があったり、打ち付けた藁人形を抜かれてはいけないと地方・伝わり方で違いがあり、呪うために自身が鬼になるのではなく、五寸釘を打った藁人形の部位に呪いをかけることができるという噂が広く知られるなど、現代では少し変化している。一般的な描写としては、白装束を身にまとい、顔に白粉を塗り、頭に五徳(金属製のものなら何でもいいという説もある)をかぶってそこにロウソクを立て、一本歯の下駄を履き、神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を毎夜五寸釘で打ち込むというものが用いられる。

呪いの効果については、実際に呪われたという人はいるものの科学的に実証されたわけではなく、誰かが自分を呪っていると認識することで、自己暗示にかかってしまい、呪われたと感じるため(マイナスプラシーボ効果)であって気にしなければ何も起こらないという研究結果もある。刑法学における不能犯の典型例として挙げられることが多い。